ホームページ > Progreson > N-ro 26 > Fusxisto En の85回日本大会たのしみ記
斉藤 延
もうずいぶん前の事になりますが、私が初めて ESPERANTO-KONGRESO (Pacifikaでした)に出た時に、先輩が「いい? Nur Gasto じゃだめだよ、さあ!ちゃんと partopreni (大会の某かの場所、部分に自分が加わる事と彼女は言っていた)するよ!」と言って姉妹都市の写真を用意して紹介する事になりました。結果はうまく映写機が作動せずに、後半は先輩の話しかできず最後は歌を歌ってその場をしのいだと思います。しおしおと帰った部屋でアメリカ人のおばさんが『fusxi』という単語を教えてくれたのでした。「良いことではないけれど、人生に必要なことのひとつよ」とも。
さて今回の85a JAPANA ESPERANTO-KONGRESO も fusxisto の私がたずさわった事でやはりいくつもの fusxoj や akcidentoj がありました。
喫茶「Cxielarko」では、初っ端からコーヒーがたてられずに難儀したし、次の日もジュースが止まらなくなってどうしよう!という事態に。これらすべて機会の扱いに長けていなかったと言うことですが。
生ものを扱う場所では窓の陽ざしも考慮に入れていかなくてはならないのに、全然考えずにいてケーキを守るためジリジリと背中を焼く私たちという場面も。40過ぎての首すじの日焼けはキツイ!
壁に何かを貼ることも禁止で困ったのですがそこは若い人たちが bona-ideo
をだしてくれて素敵なコーナーができたし、災い転じて福となったこともいっぱいです。実は学生時代に戻って文化祭を楽しんだ気分。
もうひとつ私がしかと parto-preni したのは『日本文化』の分科会でした。大会記念講演の裏番組として日本語がわからない外国からの参加者のために、茶室を ejo として、ゆかたの着付けをする事になったのです。
着付け講師の免許持ちの bofratino を頼み、友人知人から大きめのゆかたや帯を借り受けて、助手役の人数も揃い、カメラも用意して準備万端整えたりと、呑気にしていた私は、始まりの15分前くらいにポスターを作りながら、不意に心配になりました。もしかしてみんな此の分科会の事を忘れてやしない?場所も知られずに誰も来てくれない!なんて事あったりして!・・・心配は当たっている気がする。これはなんとかしなくちゃなんともならないと覚悟をしました。
家さんに頼み、Joelに頼み、外人さん見かけたら声をかけてと皆に頼んで走り回っていたら、日本人じゃない方が一人で歩いている!日本語がわからないので講演会場から出てきましたとおっしゃるので、やったー 一人ゲット!!と喜んで1階にお誘いしました。ドイツのおじさんありがとう!!そのうち数人ずつ参加者が集まってきて、結局スタッフを加えて20名くらいになったのです。
当初考えていた自分でゆかたを着てみるというのは一斉に揃わなかったことから変更になりました。時間差があったのでやむを得ず一人に一人ついて着付けをし着付けが終わったら、床の間の前でポラロイド写真を撮ってその場でお渡しする事に。
床の間には軸を掛け、手前に緋毛氈を敷いてのでシチュエーションも良かったのでは?途中から着付けをする側も余裕がなくなって、ふと気付くと外人さん達は和気あいあいで自分たちのカメラを取り出して撮影し合っていました。 用意した下駄で庭に出て蹲(つくばい)の所でもパチリ。考えてみると日本大会の中で外人参加者の交流会ってあったのでしょうか?なんだかとても楽しそうだったので、こちらも嬉しくなり、心地よい汗を流して終了しました。
終わり良ければすべて良しとも思いますが、つくづく判ったのは、ほとんどの人は Kongreso Libro をちゃんと読んでいないという事ですネ。私も終わってしまってから目を通して、こんな所にちゃんとこんな事も書かれているじゃないかと判った次第で反省しています。
自分も含めたカタコトエスペランチストのた為に必要箇所 Japana バージョンのアンチョコ Kongreso Libro が手書きでも良いからあったらよかったと思いました。
でもなにより Kongreso Libro の内容を速やかに把握できるように、がんばってカタコトエスペランチストから脱皮しようと思ったのでした。
なにせペラペラの人はかっこいいです。老いも若きも関係なく、美しい発音、よどみない言葉の流れで話される人にはエスペラントのフェロモンをたっぷり感じますよネ。
Cxi jare mi lernos Esperanton pli fervore ol pasinta jaro.
Cxiuj bonvole gvidu min, mi petas!